尺八は真竹(まだけ)でつくられており、標準管の長さが1尺8寸あることからこの名がついたと言われています。
楽器は、竹を根元に近い方から7節分切り出して中の節を抜き、筒の上端を斜めにカットすることによってエッジ(歌口)を形成、指孔を5つあけただけという、大変シンプルなものです(実際の製管では、漆などを使った精密な内部の調整が行われています)。
フルートなどと同じ「エアリード楽器」と呼ばれる構造(クラリネットのようなリードは持たない)で、歌口に息を吹きかけ、空気の振動を生じ音を生み出します。
(利道道仁銘一尺八寸管)
尺八の「二大流派」と呼ばれる琴古流と都山流では、歌口の形に相違があります。
かつては双方の楽器の内部構造や吹き心地もかなり違っていたようですが、現在では両方の尺八を同じ製管師(尺八制作家)が作ることが当たり前となっており、その差異は減少傾向にあるようです。
私たち琴古流の奏者が使用している尺八の楽譜です。折り本に筆で丁寧に書かれており、
楽曲の演奏方法の記録というだけではなく、尺八という文化の芸術性や気品を感じさせます。
外曲の楽譜です(竹友社発行「青譜」)。
「外曲」とは、箏(琴)や三絃(三味線)といっしょに合奏する曲のことです。
お正月によく耳にする「六段」や「千鳥の曲」など、数多くのレパートリーがあります。
琴古流尺八本曲の楽譜(三浦琴童譜)。
「尺八本曲」とは、虚無僧がお経の代わりに修行のために吹いた曲です。
禅味があり、独特の間(ま)や「ムライキ」というかすれた音の表現など、深い味わいが特徴です。
琴古流には、尺八の名曲とされる「鹿の遠音(しかのとおね)」や「巣鶴鈴慕(そうかくれいぼ)」(=「鶴の巣籠(つるのすごもり)」)など36曲が伝わっています。
日本の尺八の歴史は、奈良時代、雅楽の楽器として中国より渡来した「古代尺八」に始まります。
東大寺の正倉院には、聖武天皇が愛用したと考えられる楽器が現存しており、残された文献資料から雅楽の中の「唐楽」というジャンルに用いられていたことがわかります。また法隆寺にも、聖徳太子が生駒山で「蘇莫者(そまくしゃ)」という曲を演奏したいう伝説を持つ尺八が残されています。
これらの尺八は大陸で製作されたものと見られ、現在の楽器とは違い、表に5つ、裏に1つの計6つの指孔をもっています。材質は中国の淡竹(呉竹)製(※玉製や石製の物もあり)、長さは1尺2寸程度(唐の小尺で1尺8寸程度)で長細く、節は3節であり、現代の尺八とは姿形にかなりの相違点があります。しかし、歌口(吹き口)の構造が今の尺八と同じであることから、その祖先と見ることができるのです。
古代尺八は平安時代中期以降、遣唐使の打ち切りや、律令制の崩壊による財政逼迫のため行われた雅楽寮の人員削減の結果、次第に雅楽に用いられなくなり、現在は演奏されていません。
中世(鎌倉〜室町時代)においては、貴族社会を中心とした芸能が衰退する一方、猿楽、田楽、狂言や平曲といった、庶民の中からわき起こった新たな芸能が発展しました。こうした時代に一世を風靡したのが、「一節切(ひとよぎり)」と呼ばれる尺八です。この楽器は古代尺八とは違い日本産の真竹でつくられています。竹材の節間が中国の淡竹より長いためか、楽器の節の数が減り、上から3分の1程のところに1つだけになったため、「一節切」の名がついたようです。指孔は表が1つ減って、現代の尺八と同じく5孔となっています。これは中国音階の雅楽ではなく、日本の音階に対応するための構造の変化と見る説があります。
この一節切を吹いたのは、目闇法師や猿楽法師、田楽法師などといった民間芸能人です。彼らは天然痘で幼く失明した者や、土地を継げない次男三男などが大道芸人として手に職をつけ、座を形成し、地域の社寺の祭りや行事の際に奉納したり巡業したりして生計を立てるようになった人々です(琵琶法師なども一節切を吹いていたようです)。これらの民間芸能人は、おそらく平安時代後期に人員削減を受けた楽人たちから楽器の教授を受け、独自の芸の発展をとげたものと思われます。そのため、古代尺八から一節切への変遷過程は、公式の記録としてはっきりとは残っておらず、尺八の歴史の中での不明確な時代とされています。彼らは大名、高僧、連歌師とい った上層階級に取り入って贔屓にされ、有名なところでは織田信長や一休和尚なども一節切を愛好したそうです。室町時代末期には大森宗勲という名人も出、一節切だけで演奏する「手(今で言う本曲)」や、歌謡に合わせる「乱曲(同 外曲)」などの曲譜を残しています。
一方、鎌倉時代頃から、「暮露(ぼろ)」と呼ばれる乞食(あるいは世捨て人)が出現してきます。彼らは度重なる戦の敗戦によって放出された浪人が、紙衣などの粗末な服をまとい念仏や座禅などを行う求道者として流浪する集団で、時には死の覚悟も辞さず戦闘や決闘をも行ったようです。こうした「暮露」たちは尺八を吹かなかったようですが、鎌倉中期から室町にかけて、寝床にする薦(こも=むしろ)を背負い、尺八を吹きながら放浪する「薦僧(こもそう)」へと変化していきます。彼らは上記の猿楽法師、田楽法師の生業をとり入れ、一休和尚らの禅風に感化され臨済禅の普化禅師(「普化(ふけ)」とは、臨済と同世代の中国の禅僧です。「鐸(たく)」と呼ばれる鈴を鳴らしながら街で托鉢修行を行ったとされ、数々の奇怪な禅問答や奇行のエピソードで知られています。)を慕い、物質界を解脱した虚無の境地を追い求め、次第に宗教団体的な性格を帯びていったと思われ、やがて近世に虚無僧へと進化することになるのです。
室町時代末期になると、薦僧たちは自らを「普化宗徒」であると自覚し、日本の各地に16の宗派が成立、自らを「虚無僧(こむそう)」と称するようになってきました。各地に拠点となる「虚無僧寺」(草庵のようなものだった)を建て、編笠(「天蓋(てんがい)」という)をかぶるようになりました。
楽器の形状も「一節切」から3節を備える「三節切(みよぎり)」を経過して、竹の根元を使用する現代のような「普化尺八」へと進化しました(太くて固い根元部分は、決闘の際尺八を武器とするためという説が有名です)。虚無僧寺は資金源である檀家を持たないためその規模は小さく、托鉢行脚したり風呂屋を営んだりして収入を得ていました。また墓地も持たず、近くに禅宗の菩提寺を持ち、墓を作ってもらったり、過去帳に記帳してもらったりしていたようです。江戸時代には16派のうち9派は断絶し、勤詮派(きんせんは)、括惣派(かっそうは)、寄竹派(きちくは)など7派が残存、勤詮派の一月寺(いちげつじ=下総小金)、括惣派の鈴法寺(れいほうじ=武蔵青梅)の両寺が虚無僧寺の総本山となりました。これは、全国の虚無僧寺の中でも江戸 に近いため、幕府からの通達を両寺が受け、各寺に伝達する役目を担ったためのようです。
虚無僧は、尺八を「法器(ほうき=法具)」とし、これを吹奏する事は座禅や読経と同じく修行の行為であるとしました。吹奏する楽曲は「尺八本曲」と呼ばれ、その中でも「霧海※ヂ鈴慕」「虚空」「虚霊」の3曲は古伝三曲として、宗教的に特に重んじられました。この3曲の成立過程や、中国の普化禅師のエピソード、法燈国師が中国から日本に普化尺八を伝えたという伝説などを綴った『虚鐸伝記』も生み出され、虚無僧たちの精神的な拠り所となりました。 ※「ヂ」は竹冠+まだれ+虎
しかし、江戸時代に入ると虚無僧たちに精神面での重大な変化が訪れます。それは、上述の暮露や薦僧たちの、仏教的信仰を根本に備える修行者としての性質だけではなく、「武浪の一時の隠れ家」という要素が加わり、こちらの比重の方が高まっていったという事です。天下分け目の関ヶ原の戦いによって大量の浪人が出現し、生活の糧や行き場を失った武士が普化宗に入宗、清貧を厭わず普化の禅風を慕う求道者としてではなく、かつての武士としての自尊心を捨てきれず、本意ならぬ境遇に身を置かざるをえない彼らによってねつ造されたのが、いわゆる「慶長十九年の御掟書」です。これは、家康公から虚無僧たちに付与されたとされる掟書きで、虚無僧は武士の一時の隠れ蓑であるため藩士と同格の扱いとし、お尋ね者の捜索や諸藩の情勢調査などの御用向きを担うため、日本国中通行自由、顔を隠す天蓋も取らなくてよい、庶民は虚無僧に対して粗末な扱いをしてはならないといった、種々の特権を与えるというものです。この掟書きを振りかざし、虚無僧たちは行く先々の村で横暴な態度を取り顰蹙を買いましたが、徳川幕府は関ヶ原以降の浪人対策に手を焼いていたのでこれを黙認。普化宗は寺の財政を潤わせるため、本来普化宗徒にしか教えてはならない尺八を武士や町人に教授したり、芝居などで人気の出た虚無僧に憧れる 人々から高額な入宗料・免許料をとって虚無僧姿を許可したりするなどの活動も展開し、華美な服装の所謂「伊達虚無僧」も出現しました。
こうした中、江戸中期のころ、福岡黒田藩士の黒沢琴古が一月寺・鈴法寺両寺の尺八指南役として活躍、全国から尺八本曲を収集・整理して琴古流本曲を編成し尺八の名人として知られただけでなく、多数の名管を製管し世に名声を博しました。黒沢琴古は初代より三代に渡って尺八界で活躍し、優れた門弟を多数輩出したため、その芸系は「琴古流」と呼ばれるようになりました(ちなみに、「琴古流」は、文献上で確認できる最古の流派名でもあります)。江戸時代の名手としては、二代琴古門人の肥後の国細川家宇土城主の細川月翁、三代琴古門人で旗本の久松風陽、その門人の吉田一調らが有名です。幕末になると、虚無僧たちの傍若無人ぶりをさすがの幕府も看過できなくなり、数度の令達や御触によって普化宗徒以外虚無僧になることを禁じられ、虚無僧寺は重要な収入源であった入宗料・免許料を得る事が出来ずに衰退、さらに明治に入り新政府によって普化宗の廃宗が命ぜられ、虚無僧の托鉢が禁止されたために、住職以下虚無僧たちは還俗し、寺も廃寺となってしまいました。
普化宗の廃止によって尺八絶滅の危機感を抱いた吉田一調は明治3年教部省に出頭、尺八を普化宗の法器としてではなく楽器として存続させることを許可され、尺八は晴れて表向きも一般人が演奏できるようになりました。普化宗の時代に禁じられていた外曲(箏・三味線との合奏曲)も自由に演奏できるようになり、名人・荒木古童(竹翁)によってさかんに外曲譜が作成され、三世古童、川瀬順輔といった後継者によって発展、今日の琴古流の基礎が築かれました。こうした三曲合奏の尺八は人気を集め、地歌箏曲とともに三曲界は大いに盛り上がりました。その一方で当時顧みられなくなった琴古流本曲は竹翁の門弟三浦琴童が譜本にまとめこれを発行、今日の琴古流本曲の伝承は、この三浦琴童譜によるところが大きいと言えます。三浦琴童は製管でも卓越した技量を発揮し、現在でも「琴童管」として珍重されています。この時代には、楽器がそれまでの「地無し管(じなしかん)」から、三曲合奏で音律を正確に出せる「地塗り管」(竹の節を抜いただけでなく、漆や砥の粉などを交ぜた「地」で管内を整形、調律した尺八)へと改良され、現代の尺八として完成しました。
また、大阪から出た中尾都山は記譜法や合奏形式に西洋音楽の要素を取り入れ、自ら新しい尺八曲を作曲し、三曲合奏の手付けも独自のものを作成、近代的な組織を編成し都山流を興しました。彼は箏曲の宮城道雄と提携して新日本音楽の発展を押し進め、門人も多数輩出し、都山流を最も大きな尺八の流派へと成長させました。都山流からは上田流などの新流派もおこりました。
このように、琴古流や都山流などは地歌箏曲との三曲合奏を中心に発展を遂げましたが、尺八本来の禅風を慕い、伝統的な尺八本曲のみを吹奏する流派もあります。普化宗の廃宗に伴って尺八家はこぞって三曲合奏にその活路を見出し、宗教音楽であった尺八本曲はほとんど見向きもされなくなりました。ところが、明治14年に焼失した東福寺の再建のため、廃宗とともに禁じられていた虚無僧の托鉢の許可が降り、京都明暗寺の関係者を中心に勧進が行われました。こうした事を契機に「明暗教会」が設立され、樋口対山が興した明暗対山派を始め、地無し管で尺八本曲を吹き、普化宗本来の禅風に立ち返ろうとする人々が次々現れ、各地の尺八本曲を継承するようになりました。各地に様 々な流派が存在しますが、現在それらを総称して「明暗流(みょうあんりゅう)」と呼ぶことがあります。
尺八はとくに昭和の後半にかけて演奏人口が増え、現在も新しい曲が次々と作られ、国際的にも高く評価される楽器となりました。
今後ともその独特の音色や表現力に魅力を感じ、演奏され続けていくことでしょう。
このホームページをご覧の皆様は、おそらく尺八に興味をお持ちか、尺八をなさっている方が多いと思います。なぜ私たちは尺八を吹きたいと思うのでしょうか!?私なりに考えてみると…
全くの初心者が独学でゼロから始めるには、多くの困難が伴いますので、指導者につく必要があると思います。楽器の購入も、尺八を吹きこなせる技量を持った人の判断が必要でしょう。そして肝心なのは、自分の納得のできる流派・芸風の師匠を探すこと。楽器そのものから曲目、楽譜まで流派ごとに相違がありますし、伝統芸能の慣習もあって途中での転門は気軽には出来にくい雰囲気があります。まずは沢山の師匠の演奏を聴きくらべたり、お稽古を見学に行ったりして、じっくりと入門先を選びましょう。
二大流派として琴古流(きんこりゅう)と都山流(とざんりゅう)がよく知られています。琴古流は江戸時代、黒沢琴古が創始した流派で、全国の虚無僧寺から収集した琴古流本曲36曲を今に伝え、古風流麗な三曲合奏を持ち味とします。都山流は明治期に中尾都山が興した流派で、流祖自ら作曲した都山流本曲や新しい手付けによる三曲合奏、新曲の演奏などに特徴があります。その他、虚無僧旧来の尺八本曲のみを伝承する明暗系の諸流派や、都山流から分かれた上田流など、沢山の流派があります。