慶長十九年の御掟書

「慶長十九年の御掟書」とは、江戸時代に虚無僧たちが身分の保障と種々の特権を手に入れるために神君家康公の名をかつぎ出しねつ造した文書で、これを幕府が黙認したことにより、その横暴な振る舞いに周りから顰蹙を買いました。幕府もこの文書を怪しいとにらんでいたようで、一月寺・鈴法寺両本寺に原本の提出を要請しましたが、「元禄の大火で焼失」と回避、「それゆえ口頭で伝わっている物を申し上げます」と答申する有様。そんな事情により、各寺ごとに文章も条項数もまちまちで、尺八史においては虚無僧の実態を研究する上での基本資料となっています。ちなみに「御入国」とは、家康公が江戸城に入ったこと。実際には天正18年(1590)であり、慶長19年(1614)は大坂冬の陣が起こった年であります。ここには明治27年、司法省の編纂による『徳川禁令考』中のものを掲載します。

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御入国之節被仰渡候御掟書(ごにゅうこくのせつおおせわたされそうろうおんおきてがき)

一 虚無僧之儀者勇士浪人一時之爲隠家不入守護之宗門依而天下之家臣諸士之席可定置之條可得其意事
(虚無僧の儀は勇士浪人一時の隠れ家、不入守護の宗門となす。よって天下の家臣、諸士の席、これを定め置くべきの条、その意を得べきこと)

一 虚無僧諸國取立之儀者諸士之外一向坊主百姓町人下賤之者不可取立事
(虚無僧諸国取り立ての儀は、諸士のほか、一向坊主、百姓、町人、下賤の者取り立つべからざること)

一 虚無僧諸國行脚之節疑敷者見掛候時者早速召捕其所江留置國領は其役人江相渡地領代官所者其村役人江相渡可申事
(虚無僧諸国行脚の節、疑わしき者見かけ候時は、早速召し捕り、その所へ留め置き、国領はその役人へ相渡し、地領代官所はその村役人へ相渡し申すべきこと)

一 虚無僧之儀者勇士爲兼帶自然敵抔相尋候旅行依而諸國之者對虚無僧麁相慮外之品又者托鉢之障六ヶ敷儀出来候節ハ其子細相改本寺迄可申達於本寺不相濟儀者早速江戸奉行所江可告来事
(虚無僧の儀は勇士にして、兼帯をなし、自然敵など相尋ね候旅行、よって諸国の者虚無僧に対し、麁相(そそう)慮外の品、又は托鉢の障りむつかしき儀出来候節は、其の子細相改め本寺まで申し達すべし、本寺において相済まざる儀は早速江戸奉行所へ告げ来たるべきこと)

一 虚無僧法冠猥ニ不可取者ト萬端可心得事
(虚無僧の法冠、みだりに取るべからざる者と万端心得べきこと)

一 尋者申付候節ハ宗門諸派可抽丹誠事
(尋ね者申し付け候節は、宗門諸派、丹誠を抽(ぬき)んずべきこと)

一 虚無僧敵討申度者於有之者遂吟味兼而斷本寺從本寺可訴出事
(虚無僧、敵討ち申したき者これ有るにおいては、吟味を遂げ、かねて本寺に断り、本寺より訴え出ずべきこと)

一 諸士提血刀寺内驅込依願者其問起本可抱置若以辯舌申掠者於有之ハ早速可訴出事
(諸士、血刀を提げ、寺内駆け込み願いを依す者、その起本を問ひ、抱え置くべし、若し弁舌を以て申し掠める者これあるにおいては、早速訴え出ずべきこと)

一 本寺宗法出置其段無油斷爲相守宗法相背者於有之ハ急度宗法可行事
(本寺宗法出し置き、その段油断無く相守らせ、宗法相背く者これあるにおいては、急度(きっと)宗法行うべきこと)

右之條堅相守武門之正道不失武者修行之宗門ト可心得者也爲其日本國中往來自由差免置所決定如件
(右の条、堅く相守り、武門の正道失はず、武者修行の宗門と心得べきものなり、そのため日本国中往来自由差し免じ置く所決定くだんのごとし)

慶長十九年甲寅正月

本多上野介
板倉伊賀守
本多佐渡守

虚無僧寺江

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