遁翁(とんのう)曰く、普化禅師は唐人なり。釈教を嗣(つ)ぎて三十八世、
釈迦牟尼、摩訶迦葉、阿難、商那和修、優婆毬多、提多迦、弥遮迦、婆須密、仏陀難提、伏黙密多、脇、富那夜奢、馬鳴、迦毘摩羅、龍樹、迦那提婆、羅喉羅多、僧迦難提、迦耶舎多、鳩摩羅多、闍夜多、婆修盤頭、摩奴羅、鶴勤那、師子、婆舎斯多、不如密多、般若多羅、菩提達磨、慧可大祖、僧サン鑑知、道信大医、弘忍大満、慧能大鑑、南嶽、馬祖、盤山、普化禅師
当世の一大智識なり。鎮州に在りて自ら狂逸に甘んじ、鐸を振りて市に遊び、人に対して毎日、
明頭来明頭打、暗頭来暗頭打、四方八面来旋風打、虚空来連架打
一日(いちじつ)、河南府の張伯(ちょうはく)なる者、この語を聞き、禅師の碩徳(せきとく)を大いに慕い、これに従遊せんと請うも禅師許さず。張伯嘗て管を嗜む。禅師の鐸音を聞くに及び、頓(すぐさま)管を製(つく)りて、これを摸(も)す。恒(つね)にその音を弄(あそ)びて、敢えて他曲を吹かず、管を以て鐸音をなす。故に号して虚鐸(きょたく)となすなり。以てその家に伝うること十六世
張伯、張金、張□、張権、張亮、張陵、張冲、紂玄、張思、張安、張堪、張廉、張産、張章、張雄、張参
孫、名は参、壮年にして既にこの音に熟す。且つ為性(ひととなり)仏教を嗜む。舒州霊洞護国寺に到り、禅を寺僧に学ぶ。本邦の僧学心なる者もまたここに遊学す。同学にして相唱和し、参と友として善し。一時(いっとき)閑話(かんわ)の次(つい)で、語、先世虚鐸を伝え、今なおその曲を存することに及び、且つこれを調べこれを弄(あそ)びて一奏(いっそう)妙に入る。学心一賞三歎(いっしょうさんたん)、跪坐膝行(きざしっこう)して曰く、「奇なるかな、妙なるかな、世の衆管において未だこの清調妙曲賞すべく愛すべきものを聞かず」伏して、一曲を教授して長く妙音を日本に伝えんことを請う。ここにおいて、学心のために再びこれを奏し、かれをしてこれを学ばしむ。学心これを学びて日有り、禅已に熟し、曲已に就(な)れし。別れを張参に告げ、舒州を辞し、明州に纜(ともずな)を解く。南宋理宗帝の宝祐二年、船にて本邦に帰る。時に後深草天皇の建長六年なり。これによりて学心、或は高野山に入り、或は洛陽城に出て逍遥す。年有りて一寺を紀州に造立し、西方寺と号して終にここに住む。その碩徳を以て世は大禅師と号す。
弟子日に益進し、徒の中に寄竹なる者有り。禅心殊に切なるを以て、師を敬うこと益(ますます)甚だし。学心もまた親しくこれを眤(みつ)め、他の弟子と異にす。一時、学心これに告げ、「宋に在りし時、虚鐸の音を伝え得、今尚能(よ)くこれを調ぶるを以て、且つ長く汝に授けてこの伝を嗣(つ)がんことを欲す」と謂(い)う。寄竹踊躍(ようやく)して拝謝(はいしゃ)し、この音を伝へ、熟習し、嗜み弄ぶに日置かず。他の弟子、国作、理正、法普、宗恕の四人もまた能くこの管を学ぶ。世はこれを四居士と称す。
後年、寄竹行脚の志を以て暇を告げ、且つ道路の戸ごとにこの音を発し、以て往来をなし、世人をしてこの妙音を知らしめんことを請う。学心曰く「善きかな、志なり」と。これにおいて直ぐ紀州を発し、勢州に到る。朝熊(あさま)岳の上、虚空蔵堂の下(もと)に通夜し、抽(ぬきんで)て丹誠を凝らす。跪拝(きはい)五更(ごこう)に及び、将(もっ)て少しく眠りに就くに、顕然(けんぜん)として霊夢有り。海上にて小船を棹(さおさ)し、独り明月を賞するに、頓(とみ)に朦霧(もうむ)蔽(おお)いて、月の色暗々たり。霧中、管声発して、寥々(りょうりょう)たる妙音言うべからず。須臾(しばらく)して管声断え、朦霧漸々凝結して、団々塊をなす。塊中また管声発し、奇声妙音、世にこれ未だ聞くを得べからざるものなり。夢中大いにこれを感じ、虚鐸を将(もっ)てこれを倣(なら)わんと欲すれば、則ち忽ち眠り覚め、霧塊、船棹、尽く跡を無くし、唯だ管声の耳に認むるのみ。寄竹大いにこれを奇(あや)しみ、虚鐸を調べ弄び、夢中聞く所の二曲を摸擬(もぎ)す。大いにその趣を得、ここにおいて直ちに紀州に帰り、夢及び得る所の音を師に告げ、且つこの二曲を命(なづ)けんことを請う。師曰く「仏の授けしかな」と。先に聞く所、「霧海※ヂ」と号し、後に聞く所、「虚空※ヂ」と号す。
自後、寄竹は往復通行の路、始め伝わる所の虚鐸を弄び、或は世人強いて奇曲を請えば則ち今得る所の二曲を弄ぶ。後世の僧徒、これを知らず、妄りに二曲を弄び、以て常となし、虚鐸を曲名となし、この器名となさず。これに加えて器相(きそう)似るを以て鐸(たく)を転じて鈴(れい)となし、虚鈴(きょれい)と称し曲をなし、大いに古義を失う。且つ後世の僧徒、各自新しきをなし、奇なるをなし、千曲万手、意に随(したが)いて音を発し、張伯の志、忽ち絶えり。悲しきかな。
※「ヂ」は竹冠+まだれ+虎
寄竹(後に称する虚竹先生はこれなり)晩年洛東に在りて、皇城に徘徊し、終(つい)にこの音を塵哉に伝ふ。塵哉はこれを儀伯に伝え、儀伯はこれを臨明に伝え、臨明はこれを虚風に伝え、虚風はこれを虚無に伝う。虚無は即ち敏達帝の後胤たる楠正勝なり。南朝微(かすか)にして一門尽く没し、義気烈(はげ)しといえども、勇志剛(つよ)しといえども、時のなすべからざるを知り、淡海(おうみ)の中に蟄(かく)れ入り、虚風に会いてこの伝を嗣(つ)ぐ。髪を剃らず、法衣を著(つ)けず、俗衣を服(き)て、文(かざり)をなさず。掛絡(から)を穿(か)け、米嚢(べいのう)を抱き、莞(いぐさ)の円笠で以て面を蔽(おお)い、城市に逍遥す。戸々虚鐸を発し、遠行すれば則ち服の上に手巾(しゅきん)を於(ま)き、脚絆(きゃはん)、鞋(わらじ)を著(つ)け、大包袱(ほうふく)の五尺四方なるにて副子(?)を蔽(おお)い、乾坤張(けんこんちょう)(小板を以てこれを作す、一面に乾坤の字を書き、一面に不生不滅の四字を書く)以てこれを張り、中結(木綿を以てこれをなし、長短は副子の大小に随う)これを結び、行李 尽(?)これに盛り、以てこれを負う。往きて虚風を見れば、虚風怪しみて問いて曰く「狂客これ何の状や」対して曰く「在る昔、先師普化禅師城市に遊び、鐸を振りて狂をなす。小子もまたこれに倣わんと欲す。且つ小子新たに法度を制す。莞の円笠を以て天蓋と号し、脱ぐを以て不敬となし、蔽いて以て客に対す。これ即ち市中の棲遅(せいち)幽居(ゆうきょ)のみ。且つ吾輩(われともがら)の僧死すれば則ち袱巾以て尸(しかばね)を包み、副子以て席となす。中結以てこれを結い、これを土中に埋め、乾坤張以て碑銘となし、虚鐸以て楽葬となす。行脚中の死者、一(?)これを以てなさんと欲す。意それ子の意いかんや」虚風感じて賞し、「唯々(いい)」と。しかして辞別す。爾後、虚無五畿七道を廻遊し、以て虚鐸の音を弄ぶ。世人問いて曰く「子これ何の者か」と。対して曰く「僧、虚無なり」これにおいてか、世人この徒を称して虚無僧となす。諸国門人多く、この状をなす。甚だしきは則ち、鉄頭をなし、頬当を帯び、長刀或は匕首(あいくち)を佩(お)ぶ。虚無、江州に帰り、暫く志賀の辺りに住みて、この儀道を伝う。儀道、自東に伝わり、自東七代に歴(つた)え(自東、可笑、空来、自空、恵中、一黙、普明)、知来に伝う。この時既に虚鐸の名を知る在るなく、唯だ虚鈴と称して曲をなすのみ。それ尺八と称するは、華、和ともに未だ誰かこれを命(なづ)くるを知らず。知来、これを予に伝え、予、これを無風に伝う。無風或は他師に就きて、無尽の調曲をなさんや。阿部中納言公縄卿
語釈