荒木竹翁談

荒木竹翁(二世古童、本名半三郎)は近江水口藩士・荒木亀三郎の三男で、文政六年(1823)生まれ。当時卓越した名人と名高かった豊田古童(初代古童、本名勝五郎)に師事して琴古流の奥義を究め、古童の号を継ぎ、外曲は長瀬勝雄一に就いて地歌箏曲の尺八譜を作成、今日の琴古流の基礎を築き上げた偉人です。明治28年に古童の号を一子真之助に譲って竹翁を名乗り、明治41年1月17日、86歳で病没。
明治30年5月発行の『名家談叢』中の談話が『尺八史考』に転載されていますが、生い立ちや師匠との出会い、自身の修行など、大変興味深い話であり、ここに謹んで掲載いたします。

<<資料室に戻る


荒木竹翁談、『名家談叢』より

私の父は荒木亀三郎と申しまして、私は其三男でございます。幼少の時から尺八が嗜好でございました。其頃、旗下の横田筑後守の御隠居が尺八が上手で五柳と申しました。私は五柳といふ人の門前を通る毎に、そっと塀の外に立って、尺八を聴くのを何よりの楽として居りました。どうかして先生の門人になりたいと思って、便手を求めて先生の処へ参って、尺八を教へて下さるやうにと頼みましたところが、先生も承諾されて遂に其門人となり、潮汲、安宅、其他の外曲を習ひましたが、丁度其時私は十四歳でございました。

それから私が浅草に居りますと、近所に如風といふ尺八の先生が居て、此人はなかなかの名人でございましたから、私はどうかして其如風に就て尺八を習ひたいと思って居りましたが、どうしても其機がなくて甚だ残念に思って居りました。一日私が或所に招かれて一曲吹て居りましたところが、其隣座敷に居る人が「あんな拙い吹方をして居る、あれでは尺八の曲とは云はれない」などと云ふて、大層罵って居りました。自分は随分良く吹ける積りで居るのに、そんな悪口を云はれたから、私は喫驚してさう云ふ悪口を云ふからは、定めて向ふも尺八を知って居る人だらうと思って、段々尋ねましたところが、何ぞ図らん、其人は平生自分が慕って居る如風でございました。そこで私は「嗚呼、如風といふ人はそんな人であるか、自分のやうな名もない者が吹いて居るのを罵って、自ら快しとするとは無礼なやつである。よし、是れから良い師匠に就て、是非とも如風より上手になって見返してやらう」と思ふ心を起しました。併し私の家は貧乏でございますから、なかなか良い師匠を取って稽古することは出来ない。仕方がないから虚無僧となり、托鉢して毎日市中を歩いて手の中を貰って居りました。

一日例の通り托鉢して日本橋通りを歩きますと、向ふから一人の虚無僧が参りました。全体、虚無僧が途中で遭遇ふと、調の一曲を合奏するのが礼でございますから、私は先づ一曲を奏し私の名を申して、丁寧に向ふの人の名前を尋ねましたところが、其人は古童だと申しました。古童は名字を豊田、通称を勝五郎と申して、其頃一番の名人でございますから、私は大に驚き、且大に喜び、日頃の本望を達するは此時であると思ふて、「どうか先生のお弟子になすって下さい」と云って、丁寧に頼みましたところが、先生も承知されて、「それではいつ幾日に吾の家に来い」と云はれましたから、固く約束して其日は家へ帰りました。それから其約束の日になって、古童先生の処へ往きましたら、「明日来い」と云はれました。それから其の翌日往きましたら、「今日は管を拵へて居るから幾日来い」と云はれて其日も教て呉れない。それから日を約しては幾度も往きましたが、其度毎に「今日は酒に酔た」とか、「今日は用がある」とか云って、どうしても教へて呉れない。凡二月も通ったが、事に托して教へない。そうすると一日雨が降りましたから、「今日こそ先生は閑暇で教へて呉れるだらう。若し今日往て教へなければもう往くまい」と決心して往たところが、先生はいつもの通り酔て居たが、其日はいつになく私を見るとニコニコ笑うて、「嗚呼よく来た。お前は誠に感心な男だ。先達てから度々来たのに教へなかったのは決して私が故意で教へないのではない。実はお前がどのくらいの心掛で居るか、お前の心体を試すために、幾度も断ったのだから悪く思ふて呉れるな。其心体を見届けた上は、私の知て居る秘曲は残らずお前に教へてやる」と云はれて、其時の私の喜びはいまだに忘れませぬ。それから私は先生に就て数年間本曲を教へて貰って、追々上達して来ましたけれども、其奥義を究めない中に先生が死なれてしまったのは誠に残念の至りでございます。

それから私は師匠の号を継いで、古童と称して一人で尺八を研究して居りましたが、何分良い師匠がなくて困って居りました。其時分、琴の名人で勝雄一と云ふ人がありまして、此人は鈴川検校の弟子でございましたが、淡白の性質で酒が嗜で慾のない人でした。此人も一人で琴を楽んで居て、実に琴では空前絶後と云はれるくらいでございます。私は常に此人を慕って居りましたが、琴と尺八とは道が違ふけれども、其奥義は一であるから、此人に就て教を受けました。それから此人と謀て、上方歌の尺八の譜をこしらへやうと致しましたが、漸く出来るやうになりまして、種々の曲を作り、其曲譜は数十曲の多きに至りました。私が此曲を拵へることの出来たのは、全く勝雄一の力に依るのでございます。勝雄一の歿しました後はもう師匠と云ふ者がなくて仕方がございませぬから、天然の音に依って尺八の音をこしらへる様にしました。例へば春雨の音を聴けば尺八の音の静なるに感じ、秋風の颯々たる声を聴けば尺八の悲しいことを覚り、事に就き物に触れ尺八の音を分けました。


<<資料室に戻る

<<トップページに戻る