三浦琴童集

三浦琴童(本名純一)は、明治8年東京都神田区にて帝大第二病院長の長男として生まれ、幼きより病身のため医家として立たず、18歳より尺八を吹き始め21歳で二代目古童(竹翁)に師事。東海銀行に勤務しながら、素人尺八家として活躍するものの、門人に請われ職を辞し専門家となりました。竹翁直伝の琴古流本曲と、卓越した製管技術で名声を博し、昭和3年より出版した「三浦琴童譜」、当時から珍重された「琴童管」は、現在でも尺八界の大きな財産になっています。昭和15年3月没。門人に水野呂童など。

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『三浦琴童先生著拍子記号附 琴古流尺八本曲楽譜』序文

尺八本曲は古来幽玄を以て賞されております。然も禅味があり殆んど主観的に取り扱はれておるので、各自の気分、その個性も充分に竹音に流れでます。故に本曲に拍子をつけて定規的に之を点符で律する事は或は当を得ていゐないかも知れませんが、然し全然各自の随意に放任しておく事は終にその楽曲本来の趣を失ふ畏れあるのみならず連管にて吹合せするにも不都合を生じますから、先づその楽曲の型を目標として根本的の配列と認めらるゝ拍子及吹奏記号を附する事にしました。依て学習者は先づ之を基準として吹奏されん事を望みます。但し呉々も言っておきますが、本曲に於ては外曲の如く拍子に囚はれる事を致しません。その主眼とする処は内容にありますが伝来の型を個々随意に崩される事を防ぐと同時にその大体を点符を以て示したもので尚吹奏形式の楽譜に表し得ない微細な個所其他内容の扱ひ等に就ては親しく教授者に就てその妙諦を会得せられん事を望みます。
昭和三年春     著者識

※『三浦琴童先生著拍子記号附 琴古流尺八本曲楽譜』収録曲

[乾の巻] 一二三鉢返寿調、瀧落ノ曲、秋田菅垣、転菅垣、九州鈴慕、志図ノ曲、京鈴慕、霧海※鈴慕、虚空鈴慕、一閑流虚空替手、盤渉調、真虚霊、琴三虚霊、吉野鈴慕、夕暮ノ曲、栄獅子、打替虚霊、葦草鈴慕、伊豆鈴慕、鈴慕流、巣鶴鈴慕、一二三鉢返曲の記号及演奏法解説、解説
(昭和3年10月30日発行)
[坤の巻] 三谷菅垣、下野虚霊、目黒獅子、吟龍虚空、佐山菅垣、下り葉の曲、波間鈴慕、鹿の遠音、鳳将雛、霧海※鈴慕(曙調子、本調子、雲井調子)、虚空鈴慕(曙調子、本調子、雲井調子)、転菅垣(曙調子、本調子、雲井調子)、栄獅子(曙調子、本調子、雲井調子)、曙調、曙菅垣、芦の調、厂音柱の曲、砧巣籠、月の曲
(昭和4年5月31日発行)
「ヂ」は竹冠+まだれ+虎

※昭和8年発行の一冊もの『三浦琴童先生著拍子記号附 琴古流尺八本曲楽譜 全』もあり。


雑誌『三曲』より「尺八本曲の話」大正10年〜11年

1、近来尺八が旺盛(さかん)になって、吹奏家も非常に殖(ふ)えたのは事実であるが何所で聞くのも大抵は合奏曲が重(おも)であって、之が最も盛んになって来ておる。之等(これら)合奏曲は尺八楽として云へば外曲と称する部類に属するもので、それの隆盛も大いに喜ぶべき事ではあるが、一方尺八本来の曲即ち本曲のある事を忘れてはならぬ。外曲趣味に付ては又別で今茲(ここ)で縷述(るじゅつ)する必要もないが、その盛んなる尺八界に兎角尺八の真髄たる本曲を研究する人が割に尠(すくな)いと云ふのを甚だ遺憾に思ふのである。最も時代思想や他楽器との交渉接触其他の関係から云っても、外曲の旺盛になるのは当然でもあるが、併しそれが為めに本曲のある事を忘れると云ふ事は出来ない。自分は此の見地から本曲の何物たるかを披瀝(ひれき)して、更に諸君と共にその内容を味(あじは)って見たいと思ふのである。
由来尺八の資料に就ては随分由縁(ゆかり)の深いものが多い。又古雅にして禅味を帯びたものも多い。現に本曲には楽譜としても存在し、吹奏もされておるものに古伝三曲なるものがある。降(くだ)って諸流に幾多の曲も出来たが要するに古来の尺八は法器として使用されたもので独特の調を帯びた吹奏楽器であった。その独特の吹奏曲が殆んど尺八曲の根原(こんげん)であって、それを称して本曲と云っておる。
勿論時代の推移と共に本曲外曲共いつも同じ事のみを繰返してゐるのでは共鳴もせず発展もせずで或は行きつまらぬとも限らないが、併しその源を忘れて唯だ軽薄に流れると云ふ事はよくない。況して此の本曲なるものは、尺八本来の音色と妙趣を自由に発揮し得る独特のもので、尺八吹奏上の全体に渉ってその土台となるべき程のものである。
併しその本曲は六(むつ)かしい。六かしいけれどもそこに特殊の収穫がある。独特の妙味がある。元来尺八そのものが既に左程やさしい性質のものではない。その代り趣味はなかなか深い。彼(か)の本曲にある夢想に依て感得せられたと云ひ伝へらるゝ曲の如き、又因縁由緒のある曲の如き、何れもその信偽(しんぎ)は兎に角として、そう云ふ幻覚の下に一種の神韻を感ずるのは事実である。然し乍らその幽玄なる雅趣は普通一般の容易に解するところでない。極致は主観するにあるけれども、私は些かたりともその本曲の内容に及んで説いて見たいと思ふのである。もう一つその前に言っておかねばならぬ事がある。
成程本曲は至って六かしいが、併し、それを習得して息使ひ及運手法等を究むれば如何なる曲を吹く上に於ても尺八固有の妙趣を発揮する事が出来て、至極妙であると云ふ事である。
箏の方では組曲(くみ)と云ふものがあって、是が総ての手法等の根本(もと)になるので、之は必ず学んでおるが、尺八の方では出版楽譜があって、多くはそれから這入る。そしていゝ加減になると習はずともどんどん進んで行くと云ふ有様。従って本曲などは何も知らぬ又六かしいからとて近寄らぬのも沢山にある例で、全く本曲を吹くと云ふ人は段々少くなって行く様である。ずっと以前は先づ尺八を習う順序として本曲を教はり、数曲の後外曲を教はり、それから交互にと云ふ具合であって、大体尺八に対する精神なり音調なり一切を本曲で築いて行ったものであるが、当今は行直(いきな)り外曲で一直線に行く。斯くして結局本曲をやらぬと云ふ事は余程考へねばならぬ事である。大体尺八吹奏上の一切の基礎が本曲にあると云ふ事を知ったならば誰しも本曲に近寄らぬ訳には行かぬ。之から進んで本曲の大体に渉って話して見ようと思ふのである。(大正10年10月)

2、前号に述べた如く此の本曲なるものは尺八の本能を自在に発揮し得る独特のもので、尺八吹奏上の全体に渉ってその根本となり、現代尺八の基礎となるべき性質のもので、いまその多くの名手により伝はって来ておる現代の本曲なるものを解剖して見れば成程と尺八の品格が窺はれるのである。
先づ大体の種別をして見るが、元来本曲の数は琴古流としては三十六曲としてあった。が現時(いま)ではそれが四十以上に及んでおる。左に之を教習の順序でなく名称によって区別して見よう。
・鈴慕の名のつくもの
九州鈴慕、京鈴慕、霧海※鈴慕、虚空鈴慕、吉野鈴慕、葦草鈴慕、伊豆鈴慕、鈴慕流、巣鶴鈴慕、波間鈴慕
・虚霊の名のつくもの
真虚霊、琴三虚霊、打替虚霊、下野虚霊
・曲の名のつくもの
鉢返曲、瀧落曲、志図曲、夕暮の曲、下り葉の曲、雁行柱の曲、月の曲
・菅垣の名のつくもの
秋田菅垣、転菅垣、三谷菅垣、佐山菅垣、曙菅垣
・獅子の名のつくもの
栄獅子、目黒獅子
・其他
吟龍虚空、鹿の遠音、鳳将雛、芦の調、砧巣籠、寿調
此外に右の曲の中(うち)を雲井調子、曙調子に直したものが数種ある。
右曲は悉く初代琴古から伝来したものではない。鉢返、雁行柱、月、芦の調、砧巣籠、寿調はその後に出来たもので、夫(それ)に依て観ると初代琴古に依て作曲され又整曲された曲数は三十六曲に符合せぬが、之は霧海※、虚空、転菅垣、栄獅子の四曲に対し、別に雲井と曙の調子があって合計して三十六となるのである。
いま之等の曲を吹奏するとしても幾分でもその種別による或程度迄の予備智識を得ておくと非常に興趣がある。そこで内容の種別にも及んで見る事にする。
(そもそ)も尺八の最も意義の深かったのは専ら法器として吹奏された事で、従って本曲として遺っておる曲の内でも経文や鈴(れい)などに合せて吹く鈴慕及虚霊が最も古く作られ、それから漸次に他の曲が出来たものと思はれる。之等から観ても鈴慕、虚霊などは最も荘厳の気を含んで心持(こころもち)も幽玄でなければならぬが、菅垣になると余程通俗楽に近づいてゐて軽い。又獅子などになると更に派手になってゐるが大体の心掛けもそれに向ってゐなければならぬのである。
之に依て是を観れば元来本曲なるものは純主観のものゝ様であるが、更に識別すれば客観的の意味を含んだものもある事になる。内容を大体区別すると
(鈴慕)九州、京、霧海※、吉野、葦草、伊豆、鈴慕流
(虚霊)真虚霊、琴三、打替、下野
(曲)鉢返、志図、下り葉、月
(菅垣)秋田、転、三谷、佐山、曙
(獅子)栄、目黒
(調)芦の調、寿
等は主観的の方のもので、自個の精神によって発動する意味が強くて、従って個性が最も現れるが、
巣鶴、波間鈴慕、瀧落、夕暮、雁行柱の曲、吟龍虚空、鹿の遠音、鳳将雛、砧巣籠
などは寧ろ客観的の方に近く、之等は擬音も多く配色されてゐて幾分模倣の目的物がある(最も鳳凰や龍のは聞いた事はないが)。
右各曲の中でも最も有名なるは古伝三曲、霧海※、虚空鈴慕、真虚霊で之には古い伝説もあって何れ次回にも述べるが最も禅味を帯びた荘重のものである。その他九州、京、伊豆、下野、秋田など地名の冠(かぶ)せてある曲はその地方に当時散在してあったものを取り入れしか、或はその地方独特の情調気分を現はして作りしものか、とも思はれる。
琴三虚霊に付ては或は之は客観的の部類へ入れるのが至当か、それらを細かく論じてゐては際限がないが一体に此の客観的のものゝ方が一般聴衆へは面白く受入れられる。之は寧ろ俗耳に入り易いと云ふ関係からであらう。
同じ客観的のものでもその模擬すべき或物があるとすれば、その趣味をよく含味して、精神的に現はさなければ、例の物真似の猫八と大差は無い事になる。譬(たと)へば鹿の遠音にしても、之は雌鹿牡鹿を吹き分けるのだと思ふが如き事である。是は山里で月のさやけき晩景、妻恋ふ鹿の鳴く音が遠近(をちこち)に聞ゆる時のその気分、その情趣を現(あら)はしたいので、鳴かない雌鹿の声色を迄つかふ必要はない。又、夕暮の曲は京都知恩院の鐘の音を聴いて作曲された曲であるからその心構へがいる此曲や波間鈴慕などは余程実感に近づいておるのである。(大正10年11月)

3、前々号に於て鈴慕、虚霊、菅垣等各曲通じての大体の心持ちの事に就て区別しておいたが、その中でも各曲々皆固有の趣があって、従って同種類に属するからとて決して同じ式を以て吹奏する訳にはいかぬ。その中での例を二三とってその大体の解説を与へて見ようと思ふ。
本曲を口にする人は先づ必ず鉢返曲を云ふが、此曲は元来虚無僧が行逢ひの礼儀に吹合はせたものであるから最も威儀正しく吹くべきもので、非常に厳粛の意味がある。本曲の最初のものとして教へられるものであるが大いに意義の深いそして品格のあるいゝ曲で之をうまく吹くと云ふ事は余程六かしい。此の虚無僧が行逢ひの儀式に吹いたのは或は純正なる虚無僧としての証籍を明かにし、又双方の技倆(うでまへ)を知らしめる為めに撰んだものではあるまいかと思はれる。此曲には普通やってゐる入子の手と云ふて終り頃に入手があるが之は荒木竹翁先生が入れられた手で、波間鈴慕から出たものである。
瀧落の曲は豆州瀧源寺(ろうげんじ)で瀧を見て作曲されたものであるが、成程翫味(がんみ)して見ると大きい瀧ではない様であるが初の出から何となく瀧の音を聞いてゐる様な趣がある、末に至って同じ手で、ナヤシの無いのも意味が深い。
夕暮の曲は以前に述べた通り鐘の音や夕暮の趣きが充分ある。その終りの高音は曲調の変化を富ましむる為めのものであらうが、余り之等を元気よく吹くとさびしみを消して、寂寞の気に乏しいからその辺も心して吹くべき事である。
雁行柱の曲などにはやはり雁の啼く声を採入れたところがある。月の曲は荒木竹翁(二代目古童)先生の作で、月の昇る形容を入れた個所も感じられる。
鈴慕のうちでも霧海※、虚空などは最も重く荘厳の気に満ちておる。鈴慕流しなどは托鉢して歩く鈴(れい)の音が遠くより流れ聞ゆる趣きがある処を味はねばならぬ。
巣籠は鈴慕の中でも余程派手で、之は主に鶴の啼く声を採入れて作ったものであらうが他の鳥も交ってゐる様に感じられる処もある。
波間鈴慕は大波小波の具合又怒濤の有様迄味はれてそれらが充分に露(あら)はれておる。
菅垣の内で三谷はその調子が三下りのせいでもあるが閑雅(かんが)であってそこに又意気な処もある様に思はれる。
曙菅垣に至っては本曲中でも余程他と異っておって、少しは突飛(とっぴ)の様であるが、外曲を吹かなかった時代に於て衆人に面白く聞かせようと云う意味で出来たものであらう。
(かく)の如くほんの一部分の例を取って見ても各曲皆その心持ちが違ひ、之に各々の気分を露(あら)はそうと思ってもそれには技倆(うでまへ)が伴はなければ到底発現されぬ。殊に自分の心持が他へ伝はると云ふ様な事は尚ほ六かしい。
先づその基礎となる吹奏法、運指法等をその曲々によって十分会得して後に味はれるべきものである。
それからよく追善とか供養などに本曲は随分用ひられるが、それには古伝三曲が最もふさわしく、又普通はそうなってゐる。又夕暮などの寂しい感じのものもいゝ。それに例へば追善ならばその故人の好んだ曲などは当然用ひて然るべきものと思ふ。
慶賀の意味のものとしては余りない。先づ寿調が第一で、次では栄獅子位のものであらう。
本曲全体を通じて風変りと思はれるものには、曙菅垣を初め三谷、鹿の遠音などが数えられよう。
尚ほ古伝三曲中の霧海※、虚空などの曲についても古書に遺ったものもあり、趣味的でもあるから続いて之等の事も説く事にしよう。(大正11年1月)

4、尺八の本曲の内でも秘曲として有名な霧海※鈴慕、虚空鈴慕の二曲に就ては古い来歴があって、之は古い書物にあった事であるが悉く信を措くに足るか足らぬかは別問題としてその事を知っておくと云ふ事も徒爾ではあるまいと思ふ。依てこゝにそれを一通り述べておく事にしよう。
尺八の歴史を言ふ人は必ず紀州の法燈国師の事を口にする。之は尺八の歴史としては最も意義の深い事で、宗の国に渡って四居士を伴って来て我国に本曲を伝翻したとある。兎に角尺八が宗教的楽器として発達した根底を堅実にした人で、我国尺八発達史中の大人物である。翻 此の法燈国師は以前には学心(がくしん)と称へておった。紀州西方寺を造立してそれに住したとしてある。それに寄竹(きちく)と云ふ高弟があった。
寄竹は後年行脚を志して師の学心に向って暇を乞ふた。すると学心もそれは善い事だと云ふて許しを呉れた。そこで寄竹は紀州を出発して先づ勢州に向ふ事にした。そして勢州は朝熊岳の上にある虚空蔵堂の下(もと)に到って通夜をして、そこで丹誠を凝らした、つまり虚空蔵菩薩の堂の下にお通夜をしておこもりしたのである。すると或夜更けてから、七ツの比(ころ)迄寝られず、尚ほ丹誠籠めて修業の心をひきしめておると、いつとはなしに少し眠りのきざしがある。そして霊夢にをそはれたか寄竹はありありと或物を見た。
身は小船に棹(さほさ)して、月いと清らかに照りまさる海の上に浮み出て、友もなけれど独り冴え渡る月を賞して眺めておる内に俄にその景色かわって霧がかゝって辺りほの暗く、遂に月の色も光をかくして暗くなったかと思ふと、その霧の中に笛の声して寥々浩々(りょうりょうこうこう)、実にさみしくそれが響き渡って言ふべからざる妙音、聴くに飽かず耳を澄ませて、聴けば聴く程の妙音に恍惚とする。暫くにしてその笛の音はやんだ。その朦霧は漸々に凝結(こりむす)んで団々焉(えん)たる一塊(いっかい)の玉の如くなって、その丸くなった霧の中より又笛の音が発して、然もその音色、未だ嘗て人の聞いた事のない実に珍らしい調子。之は面白い調子と感心して寄竹は夢中に感じて、早速虚鐸をとって是を模倣せんと欲した。が之は一時の夢の事であって、それは忽ちに醒めて、眼を開いて見れば身はやはり虚空蔵堂にあって、霧もなければ船も棹もない、皆悉く消えて何もない。唯だ耳根(みみそこ)に笛の音が残ってそれが聞えるのみ。
寄竹は殊の外不思議に思って、虚鐸を調べ、夢の中に消えたる所の二度の音を移して見た。そしてその音調を思ひ出して大いに得るところがあって、手にも入った。茲に於て乎(か)寄竹は早速御堂から下向する事にした。そして他へは行かず再び紀州へ戻って来て、その夢の趣きを詳細に咄(はな)して、且つその曲名を命ぜられん事を師の学心禅師に乞ふた。学心も其咄(そのはなし)を聞いて大いに感じ、それは全く仏授である。汝の信心が届いたのである。而して之は前に聞いた分を霧海※と名(なづ)け、後に聞いた分を虚空※と名くべし。と云った。
それから後、寄竹は修業に出ても人が何か面白きものを聞かせ給へ、と望むものある時には必ず此の霧海※虚空※の二つを吹いたと云ふ事である。
虚竹(こちく)先生と云ふのは此の寄竹のことで、非常に高徳の人であったと記録されてある。
一説に、寄竹は此音を塵哉(じんさい)に伝へ塵哉之を儀伯(ぎはく)に、儀伯は臨明(りんめい)に、臨明は虚風(こふう)に、虚風は之を虚無(こむ)に伝へたとしてある。虚無は則ち敏達帝(びんたつてい)の後胤(こういん)楠三郎兵衛正勝(まさかつ)の事で、諸国を托鉢行脚して之が虚無僧の元祖だとしてある。(大正11年4月)

5、琴古流の尺八本曲は古来三十六曲だが、二代目古童師作曲の月の曲もあり当今では四十を出ておる事や又それらの概説などは嘗て本誌で述べたが、詳細に渡って各曲の事に深く及ぶ事は到底出来る物ではない。主観の勝ったもので感じであるから細(こまか)い説明は却て本旨を疵(きづ)つけるかも知れぬ。
之等各曲には各々(めいめい)の特徴内容があり、是を表現する精神心得吹奏法等も各々(おのおの)異る訳で、必ずしも本曲だからとて吹飛ばしてゐさへすればいゝと云ふものではない。其の精神なり音調が自在に築かれる尺八音の妙趣が乃ち尺八楽の基礎ともなるのであるから、六かしいと云へばそれ迄だが又尺八の面白味もこゝに在るのである。当今の多くのやり方である一直線に外曲をすませて尺八終れりとする如きでは未だ尺八の真韻に触れる事は不可能であると言はねばならぬ。併し本曲の事に就てはどうしても師につかねばならぬ事情がある。
由来本曲は六かしいもので習っても面白くないと云ふのは未だ其曲の心持が僅かでも会得されぬからで、畢竟含味が足らぬのである。味へば必ず趣味が深い。噛みしめらばそれだけ味があるが、そんなものは或は当今の人には歯ごわいのかも知れぬ。その代り合奏曲の如く他の制肘(せいちゅう)を受けるでもなく、其曲によって感想のありの侭を現(あら)はし、或は無我の境にも入る事が出来るので、尺八本来の妙趣を自由に発揮して行くには之に拠るのが第一である事は云う迄もない事で、聴者から云っても、吹奏者と同化して神韻を享受し、互いに溶け合ふには又本曲に若(し)くものはない。だが所謂喰はず嫌ひもあり敬遠主義もあり、本曲研究者の少いにつけても只徒らに六かしいと云ふ言葉に雷同するのは軽薄を免れぬ話である。
併し事実本曲は時好に投じない処もある。それらに付ては自分等も考へた事があって、強ちに時勢に媚びるのでも何でもないが、然し時勢と没交渉と云ふ事は出来ない。遂には本曲の価値を疑はれ存在を怪しまれる様な事にならぬとも限らぬ。それでなくてさへ既に古典的に扱はれて今後の存続に付ても考へねばならぬ時機となっておる。吹奏者が少なくなればそれは廃滅に近づくので、それを如何にして伝へるか、尺八本来の韻を如何にして保ち伝へるか、一考すべき問題であるが結局時勢の潮流にも添はねばならぬ事は勿論で、人心を遠ざかる事は絶対に出来ぬ。
伝来の本曲中には同調(同寸法)で吹違ひにするものは六曲ある。それは転菅垣、虚空鈴慕、栄獅子、目黒獅子、吟龍虚空、下り葉、などで、又鹿の遠音の如く相互掛合ひのものもある。其他合調(がっちょう)のものが四曲ある。合調とは本手の外に曙調子及雲井調子の手をつけた連管のもので、それは、曙調子だけをつけたものに鉢返の調があり、尚ほ曙、雲井両調子ともつけたものに転菅垣、霧海※鈴慕、虚空鈴慕、栄獅子、の四曲がある。時代的には之等を敷衍(ふえん)するのも一法である。又繰返しの省略と云ふ様な事も必要の事で、総てを現代に向って相当の用意をして試みたいと思っておる。
原則としては曲本来の精神と意気はどこ迄も崩す事は出来ぬ。そこに出発してその曲の手に他から幾分なり薬味的のものを添へる事も大いに必要の事で、それには右の合調式に行くのが最も捷径(ちかみち)であり、時代的に活かすにも最も有効であると思っておる。そしてそれを試みた結果相当の効果と自信を得た。が、自分の試みた本手に対する他調の合調が上乗のものであるとは決して思ってゐない。従って時には自分の意の如く手をかへ律を異にする事もある位で、主意は本手にあるし他はそれを彩る意味のものである。
曲の精神と云ふが、殆どの曲は稍や具体的にも云ひ得る夕暮の曲の如きものではなく、掴み難(にく)いものである。が各々の曲には吹奏によって得た一種の感得その心持がある。それは習得又暗示などからも得た或感じがある。と云ってそれで只超然として世間の人に聴かせておる訳には行かぬ。薬味が有効なればそれも必要である。殊に演奏台だどでは典雅幽邃(ゆうすい)のみを以て澄ましておる訳にも行かなくなっておる。
自分の試みた従来の合調物としては、夕暮、巣鶴鈴慕、三谷菅垣、波間鈴慕、曙菅垣、などで、之等は要するに曲の気持の割にわかり易いものに手をつけたのである。之に就ては尺八は違った寸法のものでやると同寸尺八でやるのと両法がある。
同律の竹では旋律の流れ及律の按排(あんばい)の相違で、異律の方では普通本手を一尺三寸、雲井を一尺八寸、曙を二尺で吹く。之は最も尺八と云限定された音律の楽器から来た事で一種の変体である。
元来曙雲井の関係から行くと、八寸が本手で、一尺三寸が曙調子、二尺三寸が雲井調子で吹くと云ふのが本式で昔から様式もそうなっておるが、併し二尺三寸では事実吹く事は出来るが一般に実際用ひられておらない。仍(ここ)で実際はそれに拠るべきだが尺八の寸法の都合から、全体を五律上げて、そして更に曙調子だけを一ヲクターブ下げる。そうすると、本手が三寸雲井が八寸曙が二尺となって、之でもって現在は合調を行っておる。
之が二管になると普通には二律の差で八寸と二尺とを用ひる。無論本手を中心とする事は何れの場合にも同じである。
一体昔からの合調ものは音の直訳的のものが大部分であって変化に十分でなかった。自分はそれに手をかへたものを取入れて試みておる。殊に演奏台に於てはかう云ふ試みは最も必要であらうかと思ふ。今度の琴古会に出る曙菅垣は七八人で、本手を中心としてやはり尺八の種類は三種であるが同寸も手が替って可なり新しい収穫のある事を予期されておる。
要するに是等も世の趣味者の本曲に対する思想に新味を与える事であらうと思ふのである。(大正12年2月)

「ヂ」は竹冠+まだれ+虎


雑誌『三曲』より「尺八の良否に関する知識ー尺八愛好家へー」昭和11年7月

絵にある尺八は格好がいゝ。ソリがあって根が張ってゐて根先のボツボツが綺麗に並んでゐて格好も形ちもいゝ。見た眼で美いものは兎角人が好むもので、尺八でも先づ格好を選ばうとします。だが尺八は見るものではないので、吹奏の楽器といふ立場から云ふと格好ばかりでは云ってゐられない。音律が第一。然し格好も音律も両方ともに良いといふのは中々得られないもので、そこでわかった人は音律を主として採るといふ事になるのですが、元来尺八は竹そのものゝ音色を愛する所から来ておるので、本来から言へば、竹の節を抜いたまゝ中の肉を取ったり、又地を附けたりしないで、天然の竹のそのまゝの音が真の竹音なのです。ところが単に節を抜き放しの侭ではすべての音が完全に出るといふ事は殆んど有り得ないと云へる位で、昔しはそれでも其の中の幾分でも音の揃ふのを撰び、具合の悪い音は熟練でどうにか出したものですが、併しそれでは法器としての尺八ならば兎も角、現今の様に指使ひの早い旋律のこまかいものを奏する楽器としては不完全たるを免れません。そして音律の修理を人工的にして修作を施す様になったのですから、その目的は竹本来の音色を害せぬ様に、出来るだけ筒内をいぢらぬ様心掛けねばならぬ訳です。地(ぢ)を付ければ、地といふものは砥の粉に漆を交ぜて付けるのですからその震動音には泥の震動音が交じる事になり、従て地の多い尺八は重苦しくて冴えがないし、又肉が厚くて中の細い竹を削って広げて作れば、竹は元来表皮が堅く内部になるに従って繊維も荒く段々柔かくなり、又内腔に近づくに従ひ繊維が密になって堅くなるもの故、内部から削り広げるといふ事はその堅い個所を無くする事になるので、幾分音のしまりが少なくなる訳です。

然し竹は天然物で一本一本外観内腔とも同一のものが有る訳ではなく、その竹に随って悉く異った手入れの個所を発見するといふ事も実に至難な事で、余程研究した人でないと出来ない事です。又それで作り上げるといふ事は非常な努力と時間とを要するので、早く作る為には一定の型の様なものを用ひて、内部を同一に作る事をやってゐる人もある様ですが、それは中の広い竹狭い竹何れでも先づ型より大きく広げておいて、更に地を付けて研ぎ出して型に当てはめるので、何れにも相当の地が付いて仕舞ふ事になります。それ故筒内は鉄砲の筒の内部の様に綺麗に研ぎ上がっております。この方法は早手廻しでいゝが、竹そのものゝ音色は地の為めに相当の阻害を受けてゐる訳なのです。

初心の内は中が綺麗に光っておれば息の通りが良い様に思ひますが、重箱の中などと違ひ楽器としての事ですから、それより音色の感念を先きにしなければなりません。併しまた柔くて肉の薄い竹になると其のまゝより堅い地を附けた方が幾らか音がしっかりする場合もありますが、やはり地が多くなれば重苦しい音が出るのですから、同じ太さ目方のものなら無論いぢらないものゝ方が良い訳です。

目方は少くも地のない竹で容積が同じものなら重い方が堅い訳ですが、地のあるものは重さだけではわかりません。太さにしても同質の同じ竹なら細い方が楽なので、只だ太い方が力もあり音も大きく出る様に思ふのですが、竹が太くとも質がやわらかくて中の細い楽なものがあり、細くても質が堅く力のあるものも有るから、只だ太さだけではそれらの事は判然致しません。要は竹質と製作技工にある事なのです。

また左右の直径が少くて卵形のものはしっかりした音が出る様ですし、平竹は派手な音が出る様ですが、是は歌口から吹込む息の廻転(かいてん)が縦に廻って管尻から出て行く関係上平竹の方が同じ出来の細い竹を吹くのと同じ事になる理由だらうと思ひます。そこで円形のものが双方の中間といふ事になるので、是等は各自の好みによる事です。只だ外形の太さなどを云ふ人は概ね自分の以前の吹料から割出した顎の当り具合や、指の掛け具合などで云ひますが、それらの少しの違ひは吹き馴れゝば差支へなくなります。

それから竹の節数も七節九節等が良いと思ってゐる人もありますが、是は古来から奇数を好んだもので、別段に節の数が音色を支配する訳ではありません。昔し伊達衆が持った尺八は喧嘩の時の用心棒にもなったので、管尻の節の多いごつごつしたものを好んだ理由もあったでせうが、単に見た眼にも強く見える迄で、根節が多ければ従て先きが太く、見た所は格好もいゝ様ですがそこには堅い繊維が多くなってゐて、上の手穴の音色より筒音だけが特に重苦しく感ずる事があり、また節が少くても肉が厚過ぎればやはり同様の訳で、すべての音の調和を欠く事があります。

琴古流の名人荒木竹翁先生の吹料であった変幻百出といふ八寸管は根の節が一つで、つまり五節の尺八で、さを鹿と云ふ九寸管は根の先きに節がなくて四節でした。何千本と製管した中で、自分の吹料として残されたのが皆根の少いものであったといふ事は、之も上下の調和の為めであったのですから、つまりは音律が良く、竹の音が充分に出て律にもすべてに調和がとれたものが良いといふ事になります。もっとも竹質もよく形も良く根も立派で、音の調和がよくそれで地なしですべての音律が良く調ふておればそれは申し分はないが、なかなかそんな竹は有るか無いか疑問です。

昔は竹材も豊富でしたから天然のまゝで鳴らぬものは捨てゝ仕舞ったものでせうが、当節ではそう竹材を濫費する訳には行きません。そこで悉くの材へ工作を施して尺八としますが、実際上から云って尺八としての良いといふものを順序に言って見れば、先づ少しもいぢっていない天然のまゝのものを第一と致しますが、第二としては、中をのぞいて見て竹の自然の真直(まっすぐ)に通った凹凸(でこぼこ)を繊維がそのまゝ残って僅かに補ひの手入れをしたもの、次ぎは、肉の厚いのをすり広げたもの、共の次ぎは、地が沢山で、それの下になると殆んど泥の笛へ竹の上張りをした様なもの、といふ順序になりませう。

すべて私の長年の経験から割出した実際上の事をかい摘んでお話し致した迄の事で、それらが尺八家の御参考となれば望外の仕合せです。


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