久松風陽集

久松風陽は徳川譜代の旗本で、3世琴古の門人。尺八の名人として一世を風靡しただけでなく製管にも巧みで、普化宗の本質に深く思いを致し、当時の宗門の堕落を慨嘆し、3世琴古没後、山田如童の4代琴古僭称に対し激しく攻撃して用達役吹合罷免に追い込むなど、斯道の正しき姿を追い求めた人物でした。普化宗はもちろんの事、尺八そのものに対する心眼もするどく、その著作を読むたびに自分の芸に対する至らなさや未熟さを痛感し、まさに背筋の引き締まる思いです。琴古流師範としてのこれからの自分を戒めるためにも、謹んで掲載する次第です。

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「独言(ひとりごと)」

文政元年(1818)再書


「独問答(ひとりもんどう)」

文政六年(1823)

△或人問て曰く、尺八は何のために吹や
○答曰何のためにもあらず好める故に吹なり

△問然らば無益の具にあらずや
○答無益の物にあらず尺八は禅器なり猥りに扱ふべきものにあらず

△問何故に禅器なるや
○答三世ものとして禅味ならざるはなく事として禅味ならざるはなし、就中(なかんずく)尺八は余の鳴物とおなじからず気息について己れを修行す、禅器ならずして何ぞや、然りといへども理をはなれたるをもって要とすれば、俗人に対して解事かたし

△問尺八に理なしといへども、一と言(いひ)二といふも是理ならずや
○答理を尽して後に理をはなれたるを理外の妙とすこは尺八に限る可らず

△問しからば先(まづ)理にあたる処を論ぜよ
○答汝口かしこくむつかしき事をいへり、不論(ろんぜざる)時は尺八を無益の具とせむ故に十にひとつを言ん、尺八を吹は上は天下のため下は其身之為也

△問何をもって身のため天下のためなるや
○答貪欲をはなるるを要とせざれば竹を吹とも業(わざ)ならず、己が心を練るを専(もっぱら)とせざれば奥妙には至らず、貪欲をはなれ心を練る時は、人自ら直にして潔白なり、一人たりとも直にして潔白なる時は天下のためならずや、又其身のためならずや

△問普化禅師はいかなる人ぞ
○答知らず禅家の知識に問へ

△問普化は尺八の祖ならずや、其の道を学んでそのもとを知らざるは未熟にあらずや
○答予は尺八の根元を知るが故に、かへって普化を知らず、普化は明悟の人なり、何ぞ尺八を吹て悟道を学んや、予がごとき愚智文盲にして、好んで尺八を吹き、漸く尺八の禅器たるを知るの徒と日を同ふ論ぜんや、普化もし尺八を吹といふとも唯一時の戯れなるべし、其業においては予が累年(るいねん)の修行に及ぶ事なし、今世普化再来して尺八を吹ことあらば、必予が門下に来て道を問ん、普化一世の録をみて普化の始終を知りたりとも、普化の悟りたるを知らざれば普化を知らざるなり、普化の始終を知らずといふも普化の悟りを知りたる者は則普化を知れるなり、予は未だ知らず

△問尺八に十二律具(そなわ)りありや
○答竹は長短細太に因て一律は具るなり、十二律はなし、十二律は天地間と人身とに有、天地間の律を暫く管中に止むれば人身にかんず、かむずれば人身に具りある十二律自ら発す、されども其人の性質により律にさとき者あり又うときものあり、うときものは教るとも知ることなし知るものは自ら知るなり

△問尺八に上下二穴表四穴裏一穴、節を七つと定め、丈を一尺八寸と極(き)む、一つ一つより所ありや
○答尺八は禅器なるが故に一尺八寸と定め尺八と号し一つ一つ名付(なづくる)時は天地陰陽より発(おこ)りて一朝に言尽(いひつく)すべからず、己が見識にて様々名付けたりともくだくだし、夫(それ)を知りたりとて上手にもあらず知らざればとて下手にもあらず、知りたき人は学んで知るべし、予は嘗て知らず唯吹(ただふけ)ば鳴(なる)ものと思ふのみ

△問竹に下より一二とかぞへ上るもの有又上穴より一二と算(かぞ)へ下る人有何れを是としていづれを非とせん
○答是とすれば何れも是なり非とすれば何れも非なり、元来一二といふも人作にして竹に天然備ありたるものにもあらず、上より下るを能(よし)と思ふものはそれを是と下より上るをよしと思ふ人はそれを是とし中より一二と算へたき人は中よりかぞへよ、予は下より一二と覚へたれば下より上るを是なりとす、奥妙に至らば下を一とする事分明(ぶんみょう)なり、自得せば始めて夢の覚たることくならむ、然れども人に対して穿鑿(せんさく)せず、無益の時日を費すををしむ

△問尺八は竹の本を用ひ一節切は竹の末を用ゆ、本末の違ひいかなる事ぞ
○答本末の違大にして論ずるに足らず、人心の大なる天地とともに広し、然れども自縛して動く事不能(あたはず)、汝が如き井蛙(せいあ)の論をなす笑にたへたり、往古七節あるを尺八と定めたるも人ならずして何ぞや、近世六節五節あるを尺八と唱ふるも人ならずして何ぞや、今昔人心違(たが)ふ事なし違ふ事有も道に熟せざる故なり、節数長短は己が心に随ふを尺八とす何ぞ竹形節数にかゝはる事あらむや、事の実なるものは旧(ふる)きを破るべからず物の虚なるものは旧きになずむべからず、禅器の尺八有又遊戯の尺八有禅器の尺八は虚なり遊戯の尺八は実なり遊戯の尺八をもて遊ぶ者多くして禅器の尺八を学ぶもの稀なり、予は禅器の尺八を修行す故に長短節数にかゝはる事なし

△問三十六曲は何れの頃定りたりや
○答三代目琴古予に語て表裏三十六曲秘曲三曲共初代琴古定めたりといへり是等は予が預る所にあらざれば知らず

△問曲毎に譜面に違はず吹ものを上手とせんや
○答然らず、譜面に不違(たがはず)吹者は物覚へよき人にして上手とするに足らず譜面の番人にひとしわづかに三十六曲覚ゆるに難き事やある大方の人たりとも一月に一曲は得べし、上手は曲数にあらず一曲の上にあり、三十九曲は三十六曲なり三十六曲は十八曲なり十八曲は三曲なり三曲は一曲なり一曲は無曲なり無曲は気息なり気息は只虚無なり、然る時は何ぞ曲数にかゝはる事あらんや

△問然らば譜面に違ふがよきや
○答譜面に違ふは法外なり譜を定めたるは尺八の乱るるを恐れてなり初心より吹嘘(すいきょ)己かほしい侭にする時は竹音美しきに聞ゆれども尺八の禅器たるを知る事なし尺八を吹て尺八にあらざるを知らば譜面にかかはるべからず、初心をして尺八の虚なるに導かん為に譜を定めたるものならむ、それを破るは法外ならずや

△問汝は譜面に不違吹や
○答違はずして又大いに違へり例へば汝も人我も人なり身体髪膚かはる事なくして又大いに違へり、爰(ここ)を以て譜面に違ふと不違との差別を思へ
△問然る時は何を以て上手とも名人ともせんや
○答竹を活に扱ふもの上手なり名人は天然にして力の不及(およばざる)妙有、然れども学はざれば名人の境界へ入る事能ず、我は竹となり竹は我となり虚に居て実に働くものをして名人とす然る時は曲を吹毎(ふくごと)に虚霊ならむ虚霊の名を曲の要とするも虚なり、曲数に三の数をはなれざるも虚なり虚無と号(ごうし)たるも又虚なり虚に居て実に働くの修行は己と心とにあり未練の輩に解難(げしがた)し

△問名人ありや
○答一人もなし其修行を知る人だに見当らず

△問汝は名人成(なり)や上手なりや又下手なるや
○答予は名人なり上手なり又下手なり名人の境界を知て入事(いること)不能(あたはず)上手の場所を修行して至らず極て下手ならずや

△問当世汝を誰とか比せむ
○答誰と比すとも予必不及(およばず)、予と心と比すとも予心に不及こころ又予に不及、況や人と比すをや、思志意念慮皆予に随ひ一にきす時は予自ら上手とも名人ともならむ唯心と予と道を修行して期の至るを楽しむ、夢々世人にかゝはる事なし竹に対して竹を吹のみ

問う人黙居して口を※む、爰においてひとり問答の号をかうむらしむ、いかにせん紙墨を費やすの多罪を嗚呼
 文政六甲申年暮秋                   江戸隠士風陽菅定晴述

む=言べん+耳


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